和佳子の場合 3

あれから3ヶ月。もう3ヶ月、というよりはまだ3ヶ月だ。サークルの仲間の誰もがまだまだ寛生の思い出から逃れられていないけれど、やっぱり寛生と一番仲がよかった和佳子よりは他のみんなの方が立ち直りが早かった。

「和佳子まだ結構落ち込んでるよね〜。当然だけどさ…」
「寛生と一番仲良かったもんね…ってまだ付き合ってなかったんだっけ?」
「ま、最後まで和佳子が寛生のプロポーズを断り続けたから、正式には付き合ってなかったけど、でも、あれはほぼ付き合ってたようなものでしょ?誰も間に入り込めないっていうか…ほんと、なんで和佳子は寛生と付き合わなかったのかな」
「ちょっとそれが謎だよね。でも、本当寛生がいっちゃってからの和佳子を見るのがすごくつらいよ。何か感情が壊れちゃったのかさ、悲しいとか顔にあんまり出ないんだよね。それが逆につらくてさ。抑えてるのかな、なんか本当にもうっ…」
「…じゃあさ、和佳子最近全然外とかに出かけてないみたいだからさ、みんなでどこかに連れてって気分転換させてあげようよ」
「そうだね〜。大学には来てるけど、大学は寛生の思い出ばかりだろうからね。どこがいいかな?やっぱ暑くなってきたから海!」
「は?まだ7月の始めだよ?早くない?」
「いいのいいの!海は海でもスキューバダイビングで本格的に!」
「は〜ぁ?何それ?うちはテニサーだよ?…でもスキューバダイビングって何かおもしろそ〜だね!」
「そうそう、そのくらい現実離れしたことしないと、和佳子は気分転換できないよ。よしそれで決まり!」

サークル仲間の提案で、和佳子は久しぶりに学校以外の場所に出かけることになった。そう言えば和佳子は最近バイトも辞めてしまったし、就職活動もしないまま、殆ど家にこもり、出かけるといえば週1の授業とたまにふらっと例の思い出のベンチでぼーっとするぐらいだった。

7月とはいえまだまだ海の近くは肌寒い。スキューバダイビングのスーツは初めて着たけど、これなら多少海の水が冷たくても平気そうだった。最初仲間と一緒にスキューバダイビングの基礎知識をインストラクターと勉強し、それから酸素ボンベの扱い方とか人工呼吸の仕方とか基本的な実習、それから船に乗って実地訓練だった。

始め背中から海に飛び込むのは結構恐かったけど、海に潜ってみたら、意外と楽しかった。視界はゴーグルより悪くないし、息苦しくなることもない。スーツは少し動きにくかったけど、和佳子は小学生時代に水泳を習っていたので、すぐうまく動けるようになった。
「ああ、なんか久しぶりに楽しいな〜」

海を泳いでいる間は必ずインストラクターが近くで一緒に泳いでいたけれど、視界は水が濁っていてあまり離れるとすぐ見えなくなってしまう。和佳子は泳ぎがみんなより得意だったから、少し油断していた…海の恐さを。みんなで一定のペースで移動している時、急に和歌子は右足をつってしまった。和佳子の異変に周りは気づかなかった。何しろさっきより視界が悪くなっていたのだ。

必死にもがく和佳子。聞き足の右足がつってしまって思うようにバタ足ができない。何とか上の方に上がろうと必死に両手もばたつかせた。でもこのような状況では混乱してしまうことほど恐いものはない。和佳子は混乱しすぎて、思わず手を自分のマスクとボンベをつないでいるパイプに手を引っ掛けてしまった。相当強い力だったのか、和佳子のマスクが微妙に顔からはがれ、マスクの中に水が入り込んできた。ますますパニック状態に陥った和歌子は、もうどうしようもなかった。息ができない。水面から10mのところでもがきにもがいてみたが、いよいよ彼女のマスクは海水で満たされ、呼吸困難で意識を失った和佳子はどんどん下に下に沈んでいった。

インストラクターとサークル仲間が和佳子がいないのに気づいたのはおよそ1分後。視界の悪くなっていた水中ではもう和佳子の姿が全く確認できなかった。インストラクターが急いで周りを泳ぐが、和佳子はどこにもいない。

下に下にどんどん沈んでいく和歌子。もう身動き1つしない。どんどん暗い海の底へ。果てしなく深い海の底へ。音のない世界はどこか幻想的で、全ての時が止まっているようだった。
…しかしそんな誰もいない水面下30mのところで、誰かが和佳子を抱え込んだ。誰だ?インストラクターよりスムーズな動きで和佳子を上へ上へ持ち上げていった。

結局インストラクターは視界が悪過ぎて和佳子を見つけることができず、他のサークル員を船にあげた後、急いで陸地の監視塔に和佳子を見失ってしまったことと報告、救助を要請した。彼一人が泳いで探していては間に合わないと判断したからだ。

その同じ頃、暗くなり始めた人気の少ない浜辺に、一人の男が和佳子を抱えて上がってきた。彼はスキューバのスーツは着てなくて、びしょびしょに濡れたTシャツとジーパンをはいていた。…寛生だった。

彼は急いで和佳子に人工呼吸をする。救助したのが早かったせいか、和佳子はすぐ水を吐き出して呼吸し始めた。
「ぐはっ。ごほごほっ」
細目を開けた和佳子は大変驚いた。寛生が目の前にいたから。
「ひっ寛生??え?…え?」
寛生はいつもと同じ、くったくのない笑顔で和佳子に喋りかける。
「泳ぎ下手だな〜。言っただろ?俺はお前を海よりも深く愛するんだよ。海の底でもどこへでも助けにいくよ。ま、海はもっともっと深いけどな。はははっ」
「え、本当に寛生なの?生きてたの?」
「本当和佳子には悪いことをしたと思うよ。ごめんね。でもお前まで俺を追っちゃだめじゃないか。よかったよ、和佳子と一緒に人工呼吸の訓練聞いておいて」
「えっ」
和佳子は自分の口を触って少し赤くなった。
「ごめん、あんまり時間ないんだ。もう行かなきゃ。一度和佳子を抱きしめていい?」
「…寛生いっちゃうの?お願い行かないで…」
「ほんとお前はいつも意地張ってるけど泣き虫だな」
そういって寛生は和佳子を強く抱きしめた。寛生の体は半分透けてた。和佳子の目は、3ヶ月ぶりに忘れてしまっていた涙でいっぱいになった。
「お願い、ずっとそばにいて」
「俺はいつもお前と一緒だよ」
「寛生…」
和佳子を抱きしめながら寛生は話を続ける。
「あのさ、俺の栃木の実家に行ってさ、俺の大学のノートをもらってくれる?何冊かあるんだけど、あれは全部お前に持っててほしいんだ。お願いな」
「えっ、ノート?」
「じゃ、俺行くから。悔しいけど、お前は他のいいヤツにくれてやるからさ、幸せになるんだぞ?…でも俺はいつもお前と一緒だからな。じゃあな」

そういって寛生は一瞬にして消えた。結局最後まで自分の言いたいことだけ言って消えてしまった。そっか溺れた私を寛生が助けてくれたんだ。彼の感触がまだ少しだけ残っていた。

それから和佳子はサークル仲間のところに無事に戻ってみんなを驚かせたとともに安堵させた。気がついたら浜に流されていた、ということにした。寛生のことは何だかみんなには言う気になれなかった。言っても信じてもらえないだろうし。

後日、和佳子は一人で寛生の栃木の実家に向かった。寛生の指輪をして。寛生のお母さんに初めて会って、寛生のノートを全部欲しいと頼んだ。寛生のお母さんは、すぐにノートを持ってきてくれた。
「岡本さん、わざわざ寛生のためにここまで来てもらってすみませんでしたね。」
「あ、いえっ、何か鈴木君の思い出を持っておきたかったので。無理言ってすみません。これらのノートを頂いていいんでしょうか」
「この子のノート見たことありますか?」
「え、あぁ実は鈴木君一度も私に見せてくれなかったんですよ」
寛生のお母さんは、はっはっはっと柔らかい笑顔で笑った。
「ったくあの子はね〜。あの子が死んでから、私もあの子のノートを眺めてみたんですけどね、見てごらんなさい、あの子のノートは岡本さんの似顔絵の落書きばかりですよ。それになんかこっちが赤面するような愛の言葉というかね〜本当に恥ずかしい」
「え?」
和佳子は初めて寛生のノートを見てみた。お母さんの言う通り、どのページにも私の横顔と思われるような似顔絵ばかりだった。これじゃあ、私に見せられないよね。…本当寛生らしい。
「きっとあの子も岡本さんにそのノートをもらわれて喜んでるわよ。ありがとうね。岡本さん、うちの子の彼女だったんでしょ?」
「…はい」
「本当つらい思いをさせてしまったわね。ったくこの子はね。この子に代わって私からお礼を言わせてちょうだいね」
「いえ、お母さん、お礼だなんて…」
「あの子も岡本さんのような明るいかわいい子に愛されて幸せ者だったのよ」

帰り近くのバス停に向かって歩いている時、和佳子は思った。
「ううん、幸せ者だったのは私よ。寛生君のような明るくおかしくて、とってもやさしい人に愛されて」
With his "LOVE" notebooks in my hands...

おわり

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