江津子の場合 2

電車の彼への「声かけ作戦」に失敗した日の江津子は、会社に着いた後も脱力感でいっぱいで、何もやる気が起こらなかった。気分的にはまさに、さんざん勉強していった試験が、学校に着いて初めて、延期になったことを知らされた時の気持ちに似ていた。ったくあのオヤジ。遅刻して上司には怒られるし、本当いやな日。

お昼は昨日と同じように実加と食べる。本当は食べる気も起こらないのだけれど。
「実加、…昨日の話の続きなんだけど、今朝、電車の彼に声かけてみようと思って…」
「んでんで、どうなった??」
実加は目を輝かせていた。興味津々らしい。
「…いや、結局声かけそびれちゃって…というか、かけ逃しちゃったって感じで…」
「は?…あ、とにかく失敗しちゃったのね?」
「うん、そう」
「まぁさ、声かけるタイミングが難しいよね。一歩間違えたら単なる怪しい女だし!はははははは。」
「はは、そーだよね…」

表情は変えなかったけれど、江津子は内心少し気分を害してた。ったく、この子はデリカシーのかけらもないのかしら?こっちはこんなに沈んでるんだから、少しはやさしい言葉かけてくれてもいいのに。他人事だと思って…ま、彼女にとっては他人事かもしれないけど。実加はまぁそれなりにかわいい子なんだけど、どうもテキトウというか、悪く言えばガサツで、もう少しちゃんとすれば結構もてるんじゃないかといつも思う。この子から恋愛関係の話を今まで一度も聞いたことないけど、彼氏いるのかしら?彼氏どころか恋愛しているのかどうかもあまりよく分からない。多分そういうこと自体にあまり感心がないように思える。

 「一回ぐらいの失敗でなによ」

江津子はその日の午後、また自分のやる気を奮い起こした。恋愛というのは、盛り上がっている時に一気に推し進めないとだめだわ。一回時間を置いちゃったらもう彼に声をかけようと思わなくなるかもしれない。江津子は、明日の朝もう一度電車の彼に声をかけてみようと思った。もうこうなったらどこまでもいこう。今日は早く寝なくちゃ。

けれど、江津子は歩みを止めなければならなかった。次の日の朝どころか、その次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、例の電車の彼が車内にいなかったのだ。え、なんで??私は彼を発見してから半年近くずっと同じ電車だったのに。なんでいなくなっちゃうの?車両を変えたのかな、それとも一本前か、一本後の電車に変えちゃったのかな…?

その日以降、江津子は必死に色んな電車を探してみたけれど、やっぱり例の彼を見つけられなかった。どこにもいない。会社自体辞めちゃったのかしら?そんなぁ…!

ついに彼を見失ってから2週間が経ってしまった。こんなに長い時間彼の顔を見なかったのは初めて。名前も知らない彼、誰だか全然分からない彼。どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう。知らないことだらけなのに。どうでもいいや、と思えればいいのに、思いは逆に強くなっていく一方。

毎朝必死に電車の彼の姿を探すけれど、どこにもいない。途方にくれている江津子はある日の会社帰り、気晴らしに新宿へ買い物しようと思った。

でも、買い物をしてもどうもあんまり洋服が目に入ってこない。どの店に入っても考えているのは彼のことがばかり。近寄ってくる店員。今は気にする余裕さえないみたい。結局洋服は手に取るだけ取って何にも買わなかった。江津子はもう上の空だった。新宿東口に向かって帰るとき、ヘアスタイリストと称する人たちがしつこく言い寄ってきたけど、本当どうでもよかった。人生さえどうでもよくなりそうだった。

しかし、恋の神さまはまだ彼女を見捨ててなかったらしい。

江津子が自称ヘアスタイリストを次々とかわしてながら歩いている丁度その時、彼女の目が何かをとらえた。

「…!」

一瞬のことだけど江津子は確かに見た。電車の彼の顔。20メートルぐらい離れたところの人ごみにまみれて、一瞬だけ見慣れた彼の顔が見えた。

今逃したらもう一生会えない!その日は少し短めのスカートで、ヒールが結構高い靴だったけれど、そんなことはお構いなし。江津子は考えるより先に全力で走ってた。彼を見失っちゃう。何とかして探し出さなきゃ。お願いもうそこから動かないで。夕方の新宿、色んな人と肩がぶつかった。だけどもう江津子には当たったという感覚さえなかった。右を見回し、左を見回すけど彼の姿がいない。でももう今回は諦めきれない。だって本当の最後かもしれないもの。江津子はそのあたりをとにかく必死に走った。

しかし、江津子はまた彼を見失ってしまった。江津子の顔は汗だらけだった。息はあがり、膝はもうがくがくして一歩も歩けそうにない。疲れ果てて思わず近くの建物の壁に寄りかかった。

あ〜、なんでなの?さっきは殆ど離れてなかったのに。もうちょっとだったのに。やっぱりこの恋愛は最初から無理だったのかしら?こんなに必死に探したのに。どこか店に入っちゃったのかな?それとも人違いだったのかな?…いや、私が彼の顔を見間違えるわけないじゃない。半年間、ずっと毎朝見つめ続けたんだから。どうしよう、もう一生会えないのかなぁ…。

「あーもしもし?僕だけど…」

江津子はふっと左がわを振り向いた。まだ心臓をバクバクさせている江津子の隣にいた男が、いきなり携帯で話し始めたからだ。

隣の人を見た瞬間、江津子の目がこれでもかというほど大きくなった。

「あ゛ー!」

江津子は思わず大声を上げてしまった。なんと隣にいた人は、電車の彼だったのだ。

江津子の大声に驚いた彼は、びくっとして江津子の方を振り向いた。お互い目が合ってしまった。ここまで来たらもう躊躇している場合じゃない。いや、それ以前に江津子はもう既に彼の腕を無意識的につかんでしまっていた。

「あの、あの、すいません!」

つづく

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