江津子の場合 1

「写真なんてとらなければよかった」
江津子はそう思った。携帯に保存してある誰だか知らない彼の顔。初めて電車で彼を見た時、思わず携帯構えてとっちゃった。カシャっていう音がしたんだろうけど、その時は全然気にしてなかった。本当は待受に設定したいぐらいなんだけど、さすがに彼氏でもない人を設定してたらおかしいし、とりあえず盗撮しちゃったわけだし。今思えばもうちょっと慎重に撮っておけばよかったとさえ思う。微妙にブレてんだよ。

一目惚れなんて、そんなこと実際は有り得ないと思っていたけど、一目見た時から、なぜかその人の顔から目が離せなくなっちゃった。一度きりの出会いなら、段々その時のときめきも薄れて、どんどんどうでもよくなってたかもしれないけど、毎日朝の電車で会っちゃうのよ。近くに行きたいけど行けない。満員なんだもんこの電車。

今日も彼は、私が近づける前に電車から降りてしまった。彼は一体どんな人なんだろう?毎日背広着てるから普通のサラリーマンなんだろうけど、どんな仕事をしてる人なんだろう?営業かな?実はうちの会社の人ってことないかな?…あ、それはないか、降りる駅違うじゃん。お得意先の人でうちの会社に来るってことはないかな。

会社の昼休み、いつものように同僚の実加とお弁当を食べる。実加は会社の同期の子で、そのテキトウな性格が何となく私に合う。

「ねぇ、実加ちょっと聞いていい?」
「ん?何?」
実加は口をもごもごさせていた。
「実加はさ、実際話したこともない人をさ…、好きになっちゃったりしたことある?」
「う〜ん、どうかな〜。私はそういうことって今まで一度もないな〜。第一それって本当にその人を愛してるのか疑わしくない?やっぱり恋愛ってさ、外見も大事だけど、それよりも中味の方が大事っていうかさ、やっぱ話してみないと、その人のことを実際好きかどうか分かんないじゃん。…何、江津子そんな恋愛しちゃってるわけ?ってか、その人かっこいいの?」
「う〜ん、かっこいいっていうか、う〜ん…メチャクチャかっこいいってわけじゃないけど、なんとなく惹かれるっていうか…。」
「じゃあさ、どうにかその人に近づいて、思い切って話しかけてみれば?」
「…それが出来ればいいんだけど、その人に会えるのって満員電車の中だけなんだよね。しかも距離が微妙に離れてて、私が近づく前にその人、もう片側のドアから降りちゃうの。」
「ならさ、その人が乗る駅か、降りる駅で、待ち伏せするしかないじゃん。」
「やっぱそれしかないか〜。簡単に言うけど、それってかなり度胸いるよね…。」

その夜、江津子は自分の部屋で悩んでいた。話したいけどやっぱり勇気がないなぁ。私の方が後から乗り込むから、彼がどこの駅から乗ってきてるのか実は知らないし。そうすると、彼が降りる品川駅に先に到着しておいて、彼を待ち伏せしてみてはどうかしら?それとも…やっぱり一緒に降りる方が自然よね。待ち伏せしていたら明らかに不自然だわ。朝の山手線で、片側のドア付近から反対側のドアに降りるのは結構疲れるけど、一度ぐらいやってみないと。彼のことが一日頭から離れないし、やらなかったらきっと後悔する気がする。会社は…少しぐらい遅れてもいいや。恋愛の方が大事。

江津子は朝いつもより少しだけ早く家を出た。今朝は、山手線に乗り込むのがいつもよりドキドキする。ドアが開いた。これから乗り込む人のスペースなんて殆ど残されていない電車。いつものように、前のおじさんの背中を思いっきり押しながらなんとか車内に乗り込む。細い私はいつもおじさん達に押されて殆どスペースを確保することができない。でも今日は、いつもより少しだけ彼の方に近づけた。私の場所から斜め前にいつも彼の顔が見える。反対側のドアにいつも寄りかかってる、そこが彼の特等席。

「…ご乗車の皆さん、社内の温度調整にご協力いただきまして、ありがとうございました。次は品川、次は品川…」

いつもは気にしてないアナウンスが、今日は妙にはっきり聞こえた。今の私には、そのアナウンスが徒競走のスタートの合図のように聞こえた。もう、何が何でも彼に近づいて、彼にどうにか声をかけなければいけない。…でも、一体どうやって声をかけようとしてたんだっけ?しまった、昨日色々考えたのに緊張で忘れちゃった。でもいい、もう時間がない、きっとどうにかうまくいくわ。

品川駅でドアが開いた瞬間、電車の中の人がいっせいにドアの方向に流れていく。普段は、反対側のドアで静かにしている江津子だけれど、今日はみんなと一緒に開いているドアに向かう。どうにか彼に近づかなければ。
とその時、江津子の目の前にいた男性が、混雑に足と取られて体勢を崩し、周りの人も巻き込んで思いっきり前に倒れてしまった。
「あ、ちょっ…」
その男性のすぐ後ろにいた江津子も、一緒に足を取られ、後ろからどんどん押し寄せる人たちに押されて倒れてしまった。
「(やだ、見失っちゃう)」
左足が、倒れた時に結構色んな人の体重がかかって打撲をしたように痛かったけど、今はそんなことを気にしている場合ではない。江津子はどうにかこうにか電車を降り、慌ててホームを見回した。

「い、いない…」

江津子が倒れていた時間はそんなに長い間のことではなかったけれど、そのちょっとしたタイムロスのせいで、例の彼はもう既にどこかへ消えてしまっていた。

ショックで思わず江津子はその場に座り込んでしまいたかった。今日のために、一体どれだけ昨日作戦を練ったことだろう。勇気も心構えも今日のためにさんざん昨晩準備したというのに。緊張のあまり3時間しか寝られなかったのに…。ありえない、あのオヤジ。

「何やってんだろう、私…」

作戦は失敗に終わり、会社に間に合うギリギリの電車も発車してしまい、ふと、江津子は我に返って空しくなった。顔しか知らない人なのに、話したこともない人なのに。なんかすごい無謀なことやってんじゃないかな。可能性ゼロに近いじゃん。何やってんだろ…。
ふと乱れた上着を直してたら、ストッキングが伝線してることに気づいた。

つづく

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